January 2010
urone:
seepassyouagain:
私は九歳の子どもで、誰かに連れられて病院にいて、みんなが私に幼児に話しかけるようなことばを使う。 私はひどく腹立たしく、どうして彼らは私にまともな礼儀を適用しないのかと思う。どうして勝手に話してばかりで、私に私自身に関する意見を求めようとしないのか。私にしてほしいことを、きちんとした言葉遣いで説明しようとしないのか。 でもどうしてだか私は、どんなにがんばっても口を利くことができない。 私は九十を過ぎたおばあさんで、車椅子に乗って、みんなが私に幼児に話しかけるようなことばを使う。 私はひどく腹立たしく、どうして彼らは私にまともな礼儀を適用しないのかと思う。どうして勝手に話してばかりで、私に私自身に関する意見を求めようとしないのか。私にしてほしいことを、きちんとした言葉遣いで説明しようとしないのか。...
urone:
seepassyouagain:
ちかごろ、複雑な利害関係を考慮するとか誰かのメンツを守るとか、そういうのが多くて、少し疲れた。 でもそういうことをしていると、まるでちゃんとした大人になったみたいで、なんだかうれしい。 いまだに「大人ごっこ」「社会人ごっこ」をしているような感覚がある。ほんとうは何か重要な資格が足りていないのに、誤魔化してちゃんとした人のフリをしてちゃっかり生きているような気分が。 もしかすると、それはわりと適切なあり方なのかもしれない、と思う。 ふだんの言動がたいへん子どもっぽい知りあいがいる。 彼はあるとき、すごくきりっとした顔で、実に適切なタイミングで、見事に正しい台詞を言ってのけた。 そうして彼は、その台詞の相手がいなくなった途端、へにゃへにゃと笑って、 「いま僕ちょうかっこよかった。大人っぽかった。立派な先生みたいだった」...
男の「許す」は
心のコップに貯まった水をすべて捨てる、
女の「許す」は
コップのふちを盛り上げて心の許容量を増やす
– Twitter / みず (via inujita) (via nanomomonga)
amayadori:
さようなら、とこの国の人々が別れにさいして口にのぼせる言葉は、もともと「そうならねばならぬのなら」という意味だとそのとき私は教えられた。「そうならねばrならぬのなら」。なんという美しいあきらめの表現だろう。西洋の伝統のなかでは、多かれ少なかれ、神が別れの周辺にいて人々をまもっている。英語のグッドバイは、神がなんじとともになれ、だろうし、フランス語のアデューの、神のみもとでの再会を期している。それなのに、この国の人々は、別れにのぞんで、そうならねばならぬのなら、とあきらめの言葉を口にするのだ。
~『遠い朝の本たち』須賀敦子(アン・モロー・リンドバーグのことば)